けんすう氏の「すごい人しか発言しちゃいけないムードにはしたくない」に激しく同意!

たまたま目に入ったけんすうさん(@kensuu)のブログ記事に、とても共感しました。

nanapiが業績赤字を出したことを受けて書かれたブログ記事に応えたものです。

僕自身、thinkchangさんがブログで書かれているような日本のITベンチャーのドメスティック志向への違和感とか、国内の成功例と言えば搾取的なソーシャルゲーム事業ばかりであることへの絶望感みたいなものは感じてます。しかし、こういった点はけんすうさん自身も同意してます。反論しているのはそこではなく、「成功してから発言しないと業界にとってよくない」という点に対して。

個人的に危機感を覚えるのは、こういう記事を書いたことによって、普通の人が発言できなくなること

って言っていて、僕はこれに一番共感したのです。

僕は日本人独特のコミュニケーションの傾向に違和感を感じることが多いのですが、日本って全然自由に発言しやすい環境じゃないんですよね。反町先生も言っていましたが、「言いたいことも言えないこんな世の中」というやつです(ポイズン!)。

いわゆる「空気読む」っていうのが最優先事項で、僕みたいに根っから空気読めないタイプは学校とかでめちゃくちゃ浮いていじめられたりします。逆に小学校から高校まで無難に生き抜いた人たちは、「空気読み」のスペシャリストになって、社会に出る頃には“思ったことをストレートに言えない”人になってることが多いのです(僕は前者で本当に良かったと思ってます)。これは少なくとも80年代のバブル崩壊までの日本経済(あるいは100年前の日本の村社会)を維持する上ではけっこう有効だったかもしれませんが、グローバリゼーションの中で勝ち残っていく必要がある現在においては無駄が多すぎてデメリットしかないと確信してます。


目次

僕の場合

僕自身が空気読めず(っていうか、大人になってからはわざと読まないことにしてるんだけど)、その結果他者から攻撃された過去の経験談をいくつかシェアしたいと思います。

① このブログへの批判を受けた話

このブログを始めてしばらく経ったころ、Twitterである批判を受けたことがあります。たしか「イラストレーターになるには」シリーズに関するものだったと思いますが、ザックリ言うと「正解はひとつでは無いのに、自分の考えが一番正しいかのように結論を断定して書くのは良くない」というものでした。おそらく「イラストレーターになりたかったらデッサンをやるべし!」とか「イラストレーターは職人であれ!」とか、そういうキャッチ風のタイトルもその人を苛つかせる要素だったのかもしれません(笑)。まあこれはいわゆる釣りタイトルなので目くじら立てられても困るわけですが、たぶんその人はタイトルだけでなく文章全体が気に食わなかったんだと思います。

釣りタイトルに関しては先の記事の中でけんすうさんも似たようなことを言っていて同感です。

たとえば「ベンチャーで成功するには」みたいなのは、「僕は成功していないんで」と断ったりはしています。僕が語っても参考にならないし。まあ、釣りタイトル的にそういう文言になったりしますが、本質的には、知っていることしか伝えられない、というスタンスです。

僕の答え:万人に当てはまる究極の正解しか書けなかったらネットはすごいつまらなくなってしまう

それで、僕がその人にどう答えたかというと「個人ブログなんだから、何をどう書こうが問題ないと思う」的なことを言いました。同じことを公共の電波で(しかもNHKとかで)言ったら、場合によっては問題かもしれませんが(まあ、それでも問題ない程度の発信しかしてないと僕は思っていますが)、僕個人のブログで僕の意見を断定調に書けなかったら、もはや自由に発言できる場所って無いじゃないですか。もしかしたら「断定調じゃなくて、他の考えも尊重しつつ書けばいいのだ」と言われるかもしれませんが、そんなことしてたら回りくどくて(ただでさえ長い僕の文章がよけいに)長くなっちゃいますし、僕は「僕の意見が一番正しい」とも言っておらず、特段他の意見を否定もしてないので問題ないはずです。そもそも、もし誰かがブログで他者の意見を否定していたとしてそれが不快だったら、ブラウザのウィンドウをそっと閉じれば良いだけじゃないですか。勝手に読みにきて「不快」と言われても、それはどうしようも無いというか…。100人読んで100人が不快だったら、それはちょっと問題なので僕も改めますが(笑)、けっこう参考にしてくれたり支持してくれたりする一方で不快に感じる人もいるんだとしたら、少なくとも個人ブログの発信においては後者への配慮は全くしなくてもいいと思っています。そんな配慮を全員しなくてはいけないネット社会って想像するだけでもめちゃくちゃつまらないので。

② facebookでプチ炎上した時の話

1年以上前だったと思いますが、僕がfacebookの投稿で“日本の教育批判”をしたことがあります。簡単にその時言ったことを説明すると「日本の教育は今の時代の国際化とか多様化には全くキャッチアップできてなくて僕は個人的にそういうところに問題を感じてるので、もし今僕に子どもがいたとして、その子どもを日本で子どもを育てるとしたらホームスクーリングをするかも」的な感じです。これが(赤の他人ではなく・笑)フレンドからかなり攻撃されて軽く炎上気味になり、意外な展開にちょっとたじろぎました。

攻撃してきた人たちの言い分は「自分は子どもを日本の公立学校に行かせてるけど、日本の教育も良いところはたくさんある!」とか「親のエゴで学校に行かせないなんて、子どもがかわいそすぎる!」とか「私は教職者で日々日本の教育にたずさわっているのに、そんなこと言われると悲しい」とかそんな感じでしたが、僕からするとその展開が意外で、やっぱり僕は空気読めないんだな〜って改めて自覚させられておかしくなっちゃいました。

僕の答え:感情論を持ち込むと多様性も無くなり議論も成立しない

冷静に考えてほしいんですけど、僕がどれだけfacebookで日本の教育を批判しても、僕には全く社会的影響力が無いのでそれによって日本の教育システムが変わってしまうということは絶対にあり得ませんし(もし僕に社会的影響力があると思う人は、僕を批判する前にご自身の社会を見る視野の狭さを疑うべき)、ここでの発言も「もし僕に子どもがいたら自分はこうする」という話をしているだけで、「明日からあなたの家庭もそうするべきです」とは言ってません(そもそも他人に押し付ける気はまったく無い)。なので、そんな取るに足らない僕の発言は放置しておけば良いのです。それなのになぜ彼らが僕をやり玉にあげて糾弾するのかと言うと「不快だから」という感情的理由としか考えられません。感情論から始まる批判は、そもそも相手に議論をしようという気がなくたいてい不毛な結末に終わるので、基本僕はスルーします。

そもそも、僕は日本にいる日本人のほとんどが日本の教育にそれなりに肯定的なことも知ったうえで、そういう人たちに理解を求める必要は無いと思って発言しています。そうやってプチ炎上しつつも、フレンドの中のひとりでも僕の発信によって「なんか学校に違和感あったけど、同じことを感じる人もいるんだ」と思って気が楽になったら、それだけで発言する価値があると思ってしているだけです。日本の教育システム肯定論なんて、僕以外の人がたくさん発信しているので、肯定したい人たちはそういうのを見れば良いだけじゃないでしょうか。もちろん意見が違う人からの感情論抜きの議論や問題提起は大歓迎ですが(それすらヒマな時限定ですけど)。

この話、「すごい人しか発言してはいけない…」という本タイトルからズレる気もしますが、僕が思うに、例えば僕がハーバード大学卒業とかでこういうことを言ったらたぶん炎上しないと思うんです。結局「三流大学卒業で教育の専門家でもないのに偉そうなこと言うな」的な見下しもあって無条件に否定から始まっているはずなので、必ずしも無関係ではないのです。

正論を盾に少数派意見をを攻撃する空気が、社会から多様性を失わせる

それにしても僕がいつも違和感を感じるのは、感情的に相手を批判してやり込めようとするひとほど“一般常識的な正論”を盾にするだけで自分の意見で議論しようとしないことです。

少なくとも日本社会の一般常識として「相手の立場を尊重してモノを言う」とか「断定口調でモノを言わない方が良い」とか「学校教育は子どもにとって大事なもの」とか「義務教育は受けさせなくてはいけない」とか「教育者に向かって『日本の教育はダメだ』と言うのは失礼」なんて言うのは当たり前のことで、そのタブーをあえて無視して発言している少数派論者に対して一般常識的な正論を盾にして感情的に批判をすることは、例えるなら“車にひかれそうな子どもを助けるために道路に飛び出した人に対して「信号無視は法令違反だ!」と怒る”くらい滑稽です。

理解できない行動をとる少数派の人間がいたら

というわけで、自分に理解ができない少数派の(あるいは非常識な)人がいて、その人の行動が気になるなら「どうしてそういう振る舞いをするのか?」と感情的にならずに冷静に聞くのが一番良いし、感情を抑えられないほど不快ならわざわざ関わらずに自分から離れれば良いだけではないでしょうか。僕としては、僕のことを不快に感じる人が勝手に離れていく分には一向にかまわないと思っています。自分の考えや振る舞いを改めてまで仲良くしたいと思う人はいませんし(逆に言うと、そういう人は考えや振る舞いを改めない限り僕のことを受け入れられないということですから)。

そういう“仲良くはできないけど、離れて尊重し合う”関係が築きやすい環境を作らないと、多様性のある社会は絶対に実現できないと思うんですよね…(これが理想的な形でできているのも、僕が住むベルリンという街のすごいところ)。

まとめ

というわけで、常日頃なんとなく思ってたことを改めてまとめて書いてみました。

いろんな話を書いてしまいましたが、結局僕が言いたいのは

自分が人に伝えたいことなら、誰であろうとどんな内容だろうと、あれこれ気にせずストレートに書けば良い

ということです。もちろんそう思わない人もいるでしょうけど、そういう人たちは書かなければ良いだけの話です。

10年前とか中学生のときの自分の参考になることだったら書いて良い

僕がブログで発信する際のひとつの基準があるので、最後にそれについて書きたいと思います。僕が発信する(あるいは人に何かをしゃべる)際のひとつの基準は「昔の僕(10年前とか中学生のときとか)がこれを聞いたら参考になったはず/嬉しかったはず」という話です。前述の「イラストレーターになるには」というシリーズも、前提として12年前僕がイラストレーターを志した時に、ネットで検索したもののあまりにも(今の僕みたいな)イラストレーターになるためのHow to的な情報が少なく困ったので(僕がなりたくないタイプのイラストレーターになるためのHow toは本などでけっこうあった)、今あの頃の僕のようにイラストレーターを志している若い人に向けて書いているだけで、僕みたいなタイプのイラストレーターになりたくない人(もっとアートっぽいイラストとか、あるいは萌え系?とかを描く絵師になりたい人)は、そもそも僕のブログを参考にしないはずなので(そもそもそのくらいのカテゴライズもできなかったら、イラストレーター以前にフリーランスに向いてない)、あくまで「僕みたいなイラストレーターになるには」という意味ですべて断定して書いています。

けんすうさんも⬇このように言ってます。

“見た人があの程度でいいって思っちゃうじゃないの、っていうのが私の言いたいこと。”

に関しては、聞いている人を馬鹿にしすぎだとは思います。ブログを読んだり、イベントに出席しようとする人は、自分で情報の取捨選択や、情報を解釈して参考にできることだけを取り入れたりできますよ。もっとみんなしっかりしていると思うけどなあ、、と。

僕からすればけんすうさんはご自身が思ってるよりは影響力があると思いますが、それでも思ったことをストレートに発信して、受信する側がその情報が選んでいけば良いだけの話です。thinkchangさんが言うように、グローバル展開できるに超したことは無いんですけど、たまたま持っている条件やリソースが国内向けのWebサービス向けだから、まずはそこを目指そう!って思う若者がいても全然OKなはずで、そういう人たちに対してはけんすうさんの発信は参考にも励みにもなるはずだし、逆に最初からグローバルマーケット前提の人はそもそももっと違う発信者のブログを読みにいくはずです。

そのあたりは先日バズッた高橋かずきさんのインタビューで僕が最後に伝えたかったこととも符合します。

特に日本人は「まずは経験しろ」とか「若者は下積みから」って言う人が多いですけど、僕から言わせれば、才能ある若者は下積みとか絶対必要ないですよ。

とにかく日本社会は40代くらいまで“若造扱い”なので、なかなか発信しづらい空気があるんですけど、逆に今の50代60代の人のITリテラシーとか見たら、その年齢が発信するには遅すぎるって分かるじゃないですか(笑)

だから「教える」とか考えるとプレッシャーあるので、もっとカジュアル且つ積極的に自身のことを発信し続けて欲しいですね。ぜったいそこから良い影響を受けて可能性が開ける同世代やもっと若い世代の人たちが出てくるはずなので。

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というわけで、僕もますます自由に発信していきたいと思います🤓


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