こうして、鹿児島の二日間の旅行は終わりました。
師と語れた時間
鹿児島は僕のイラストレーターとしての出発点であり、心の故郷と思っている場所なので、師である大寺聡氏に会いに行き、いろいろと語れたのは本当に素晴らしい時間でした(大寺さん、お忙しい中ありがとうございました!)。特に今まではお会いしても自分のキャリアが未熟過ぎたり、仕事に追われるだけで精一杯な中で自分の考えも今ひとつまとまってない状況ゆえに言いたいことが上手く話せなかったりしたのですが、今回は限られた時間の中で自分なりに話したいことやお聞きしたいこと、また、見ておきたいことをそれなりに見聞きできたのではないかと思います。
僕が2003年に初めて鹿児島を訪れた時の話はコチラ
資本主義経済について思うこと
自分の中でここ数年テーマになっていることのひとつに「資本主義経済の限界」というような事があるのですが、その答えが今回の旅行で目にした鹿児島の街や大寺さんのライフスタイルの中に垣間見えた気がしました。いろいろな考え方があって良いと思いますが、資本主義経済(のみならず、そもそもの貨幣制度も)が非常に不完全で、破綻しかけているようにも見えるのです。しかし、都市に生きていると依然としてその影響力が非常に強いので見えないことが多いのも事実で、そのような環境だと、例えば「もしも今直ぐに円が暴落したらどうしたらいいのか?という問いに対する答えを見つけるのが非常に難しいのです」(しかし現実の問題として暴落する可能性が無いとは言えません)。
鹿児島で見た可能性
今回訪れた鹿児島の地域には資本主義も勿論浸透しつつ、一方で資本主義経済だけに支配されていない別の軸も確かにあるように見受けられました。そして、それが土着の人だけではなく大寺さんのようにかつては東京のど真ん中で生きていた人でも仕事のしかたを大きく変えること無く、自然な形で溶け込んでいるのが僕らにとっての大きな希望だと思えたのです(勿論大寺さんが今の生活を実現する過程で色々なご苦労はあったはずですが)。
資本主義的な価値観(つまり、お金の力に頼る生き方)のみを信じる人はお金の力が失われた時に、全ての希望を失います。それはある意味で、学校でいじめに遭った子どもが自殺をしてしまうようなものだと思います。もっと広い世界や別の価値観がいくらでもあるはずなのに、それを知らない為に自分の存在意義を感じられなくなってしまうのです。僕は社会においてもそういった別の価値基準があるはずだと思いつつ、同時に日本国内でそれを見つけるのはもはや難しいのではないかと諦めている部分もありました。しかし、鹿児島には(そして恐らく鹿児島だけではなく、日本の多くの都市化されていない地域には)そういった価値がまだ残っているということを強く感じました。
僕は高城剛さんの生き方にも憧れ、非常に尊敬しているのですが、高城さんが仰るところの「ハイブリッドな生き方」というのは、つまりそういうことなんだと思います。新しい価値を作ることでも勿論良いけど、古い農村にも実はそういった価値がたくさん残されているのです。そして、都市部でそれが失われてしまったのは、大寺さんがブログで仰っていた通り、核家族化等でお年寄りの考えを無視した社会が作られた等の理由なのだと思います。
そんな気づきがあった今回の旅行でした。今後は便宜上資本主義的なベクトルでますます頑張りつつ、それと同時に自分なりのハイブリッドな価値観を見いだす努力をしていこうと思います。
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